こころの拠り所【幼稚園と先生の思い出】

幼児期のわたし


「ディフェンセラ」そのスキンケアはすべてが新しい

父親がいなくなってその後

父親が本当に全く帰ってこなくなった。

今までは喧嘩をしてもしれっと帰ってきては、また祖父と喧嘩をして出て行ってたのに本当に帰ってこなくなった。

祖父は「あんな馬鹿いなくなって清々した。」と言っていたし、、祖母も何らいつもと変わらず過ごしているように見えた。

その頃の私は、母親の記憶はないし、父親もほとんど家にいなかったし、生活の拠点がここである以上

もう自分の居場所は祖父母の家しかないということを理解するしかなかった。捨てられて拾われたと何度も言われ続けても、行く場所もないのだしここにいるしかないということなのだ。

心の拠り所は幼稚園

そんな環境の中、わたしは相変わらず幼稚園が楽しかった。

毎日行くのが楽しみで、病気もせず通えて卒園の時には皆勤賞をもらったほどだ。

幼稚園に行けば友達もいる。大好きな景子先生もいる。完全に心の拠り所になっていた。

幼稚園の弁当がごはんと湯煎したハンバーグまたはミートボールといった簡単なおかずしか入っていなかったけど、それでも良かった。

料理下手な祖母の手にかかると、こんなもんだったが

お友達の弁当箱は可愛いキャラクターの弁当箱で、わたしのは誰のお下がりかわからない古いアルミの弁当箱で梅の絵が描いてあって、ダサかった。

が、みんなでお喋りしながら食べるお弁当は美味しかった。

お友達の弁当は色とりどりのおかずが入り、見たこともない食べ物があったり、デザートのフルーツがあったりうらやましいこともあった。

私もみんなの真似をしてたまにメロンやイチゴを持って行ったりした。

それに、こんな私のシンプル弁当なのに、おかずを取り替えてくれる子もいたりして、

些細なことでも、生まれてからの一番古い私の記憶の中で心から笑顔になれる居場所だった幼稚園。

幼稚園時代は今でも本当に忘れられないくらい大好きだ。

お勉強大好き時代

幼稚園ではひらがなを教わる時間もあり、私はその時すでに自分の名前くらいは書けたが改めて教えてもらうと絵本を自分で読むことができるようになった。

その頃のわたしの家にはとにかく伯父さんが持ってきたいとこたちのお下がりの本がたくさんあって

友達と遊べない日は家で本ばかり読んだ。

知らない言葉があると祖母に聞いたり、祖父に聞いたり。

二人とも私が難しい質問をすることをたいそう喜んで、普段は喋らないのにその時ばかりはよく教えてくれた。

幼稚園でも、教室に置いてあった絵本を景子先生に読んで聞かせると先生は「すごい!上手に読めるのね!」と褒めてくれた。

褒められて嬉しくて、私はますます家でもたくさん絵本を読んだ。

その頃の童話は知らない話がないくらい、読み漁った。

他にも簡単な計算を教えてもらったり、理解できることが増えて私は勉強がどんどん楽しくなっていった。

数字は1~100までわかるようになってズラリ書いてみる、なんだ、こんな簡単なことかとそうなると1,000まで書けるようになったり。

1、2、3、4、5、・・・・9、10

11、12・・・・・・・19、20

こんな繰り返しということを理解したということなんだけど、そういう気づきが楽しくて仕方がなかった。

「先生、私、小学校に行って勉強するの楽しみ!早く行きたいな。」

私は幼稚園の隣にある小学校の校舎を眺めながら景子先生にそんな話をしたのを覚えている。

「勉強が好きなんて偉いねぇ。」

当時の景子先生の言葉はひとつひとつ、励みになった。

褒められなれていないので気恥ずかしかったこともあったけど、たくさん褒めてくれた景子先生には感謝しかない。


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