私について

幼児期のわたし
2歳のひなまつり

私が生まれたとき

昭和47年の暮れ、私はこの世に産声を上げたいわゆる、団塊ジュニア世代

両親はともに戦後生まれ。

わたしたち、団塊ジュニア世代はバブル崩壊も就職氷河期も経験したけど

テレビでもよく語られている楽しかった昭和の時代を生きてきてので

時代背景としては楽しかったと思う。

父親はそんな時代の某歌手から取った名前をつけた。

父親がトラウマな私は、名付け親が父親というだけで今も自分の名前を全く好きになれない。

3歳くらいの記憶


私が物心ついた時にはすでに父と母は離婚していて、記憶の中に母はいなかった。

気がつくと私は祖父母と3人で暮らしていて、いつもはどこに住んでいるのか知らないが、父はたまに家に帰って来た。

たまにしか会わないにしても、遊園地や動物園に連れて行ってくれ、おもちゃを買ってくれることもあり父が来るのが楽しみだったのを覚えている。

祖父母の家は商店街にあり、まだ現役で商売をしていた。昔ながらのお客様中心の考え方なので365日休みがなくて当たり前といった生活。

2人とも町内会の旅行以外はどこへ行くでもなく、何をするでもなく、小さかった私には祖父母と旅行に行ったり楽しかった記憶が全くない。


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その頃の私と父親

父親がたまに来て連れ出してくれるのはいいが、幼い頃の私は父親の姿が少しでも見えなくなると泣いて騒いでパニックになった。

たまにしか帰って来ない父親、そして、またいつの間にか私を置いてどこかへ行ってしばらく帰って来ない父親。

少しでも姿が見えないと、もうこのまま家に帰れないのではないか?といつも恐怖心が湧いた。このまま捨てられてしまうのではないかと。

写真の中の私はいつも眉間に皺がよって困ったような顔をしている。特に3歳くらいの時の写真には笑顔がない。

泣いてばかりいたので目を赤く腫らしている写真が多い。

トラウマになる話を聞かされていた頃

言葉を理解できるかできないかの小さいうちから、祖父が私に言って聞かせた話がある。

私の母親は、私が泣いてばかりいてうるさいから父親に「この子を山に捨ててこい。」と言ったという。

父親は「それは可哀想だ、そうだ!お爺ちゃんとお婆ちゃんの家に連れて行こう!」とこの家に連れてきて「この子を捨てることはできないから何とか面倒を見てほしい。」と頼んできたんだという。

私は怖かった。

この話を聞いて、母親とはそんな恐ろしい人なのかと・・・。

それからは自分から母親について質問することはなくなり中学時代までずっとその気持ちを抱えながら育つことになった。



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