1年生になった
私は小学校1年生になった。
光子伯母さんが買ってくれた赤いランドセルを背負って、いよいよ小学生。
しかし・・・幼稚園の頃あんなに憧れていた小学生だったのに、初めての担任は年配の男の先生でお爺さんのような先生で、ちょっと思っていたのとは違った。
校舎は木造なのは知っていたが、中はボロボロ。歩くたびに廊下はギシギシ言うし、隙間風はヒューヒュー。(笑)
トイレは外でボットン。暑い日は目が染みるほどアンモニア臭い。昇降口も外に簡易的な屋根が付いているだけなので、強風で雨の日は靴もびしょ濡れ。
2階の教室で絵の具のバケツをひっくり返そうものなら、色水が降ってきたり。
本当に貴重な経験ができた校舎だったと思う。
そんなオンボロ校舎だったけど、私は階段にあった雲の絵が好きだった。
いろんな雲の絵が描いてあって、休み時間には自由帳に雲の絵をまねて描いて覚えた。
にゅうどうぐも、うろこぐも、いわしぐも、ひこうきぐも・・・
いろんな雲があった。やっぱり学校って面白い!私にとってこういうところが学校の面白さだった。
昭和の1年生
昭和の話なので、今思えば先生は50代だったようだがものすごくおじいさんに見えた。失礼な話だけど。
おそらく今の自分と同じくらいだったのでは?と思われる。
先生は常に篠竹を持っていた。篠竹は黒板で説明する時にも使われたが、私たちを叩く道具でもあった。
長さも短いもの、中くらいと長いもの各種あって、1番後ろの席の児童にも届くように用意されていた。
今ではありえないけど、あの頃は小学1年生でも容赦なく篠竹で叩かれたものだった。叩かれるのは圧倒的に男子が多かったが、先生は女子も叩いた。もちろん私も何度か叩かれた。
忘れ物をしたり、女子に意地悪をした男子、いたずらがバレた・・・などなど。叩く理由は様々。
とにかく篠竹は痛い。ピンポイントでビシッとやられると神経に響く。
家に帰って叩かれたなどというと「そんなもん叩かれるお前が悪い!」とまた怒られるのでそんなことはもちろん報告しない。
今だったら、体罰だと大騒ぎになりそうなことも、まだ許されていた時代。でも不思議なことに私はこの先生が嫌いではなかった。
勉強って楽しかったはず?
私は担任の先生が好きでも嫌いでもなかったが
景子先生のように「すごいすごい!」と褒めてくれることもなく、思っていた学校ってこんなの?とどんどん勉強に興味を無くした。
幼稚園時代に憧れて早く学校に行って勉強したいなんて気持ちはあっという間に失ってしまった。
学校でも褒められないと、私を褒めてやる気にさせてくれる人がどこにもいなかった。
ひとりひとり、係があったけど、第一希望の【ほけんがかり】(不調の人を保健室に連れて行く係)にも第二希望の【いきものがかり】(庭の金魚に餌をやる係)にもなれず
先生が勝手に決めた【くつがかり】になった。
他にも、かさ係やらロッカー係などあったが要は乱れていたら直してねという、いてもいなくてもいいような
その他のような係で、自分の中ではどうでもよいのが充てがわれたなと不満のせいでやる気にもならなかった。
そして、宿題もしょっちゅう忘れた。
手紙を渡すのも忘れ、給食費の封筒も渡し忘れる私になった。
ハンカチもティッシュも持っていないことが多くて、衛生検査ではいつも引っかかるし
雨予報なのに傘を忘れて、ずぶぬれで帰宅なんてこともしょっちゅうあった。
なので通知表には「忘れ物が多い。」と書かれるわけで、全体的にやる気のないとみなされた私は
家でもいつも「だらしがない!」些細なことで叩かれた。
クラスの出来の良い子と比べて「みてみろ、あの子はこんなにちゃんとしてて利口だ。なのにお前は何だ!」となり、そんな時必ずいつもの捨てられた話が始まった。
「あそこんちは親がいないからダメなんだと思われる。」とも言われるようになり、そうして祖母がどんどん私にレッテルを貼ってきた。
実際いないんだから仕方ないし。いつもいつも誰かと比べてきて、出来が悪ければ怒鳴られ叩かれた。
小学生の子供に、自分のプライドしか考えてないような話をして、祖父母に感謝して優秀であることが恩返しだなんて、もしそうできる人がいるなら教えてほしい。
「どうしたらそういう気持ちになれましたか?」と・・・。
こうして、私の小学生時代が始まった。


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