コミュニケーション不足と母の愛

順番や交代も意味が解らない私

友子ちゃんには1つ年上の英樹という兄と生まれたばかりの弟、直樹がいた。

友子ちゃんも愛ちゃんも、きょうだいがいるせいかコミュニケーションが上手だった。

私たちがたまにおもちゃの取り合いで喧嘩になることがあっても、じゃんけんで順番を決めよう!とちゃんと解決策を知っていた。

順番を決めたら、使う時間も決めて交代で遊ぶことができた。

しかし、私はそれができなかった。私が先に使ってるんだから私しか使えないでしょ?

なに勝手にじゃんけんして次に使う人決めてんの?

こんな調子で理解できなかったので「かして!」「じゅんばんだよ!」と責められて喧嘩になったりすることも多かった。


キャンディキャンディのナースセット

ある時、愛ちゃんが当時流行りのアニメキャンディキャンディナースセットのおもちゃを買ってもらった。

あの頃の女の子はみんな大好きだったキャンディキャンディ

なんなら今でも好きだ。

キャンディキャンディは残念なことに、原作者と作画者の著作権争いで漫画本も販売されなくなってしまった。

最後に読んだのは、1990年代後半くらい。

その頃、キャンディキャンディのキャンディ(飴)が発売され、近所のママ友と懐かしさのあまり話が盛り上がり、そのママ友が持っていた単行本を借してもらった。

あの時に私も買えばよかったととても後悔している・・・。

このアニメのグッズは私もいくつか持っていた。父親が買った人形と、七五三のお祝いに親戚がくれたキャンディが持っているのと同じ十字架のペンダントだ。

このナースセットが発売されたときはすでに父親も家にいなかったので、当然ねだったところで買ってもらえるものでもなく憧れのおもちゃになっていた。

とはいえ、愛ちゃんも誕生日のプレゼントに買ってもらったもので、しかも雪ちゃんと誕生日が近いからと二人でひとつのおもちゃで、当の本人たちもひとりじめで遊べないというものだった。

私はそのおもちゃを見るなり絶対遊びたい気持ちになった。友子ちゃんもそうだったろうと思う。

おニューのおもちゃゆえ、最初からじゃんけんで順番決めになり、じゃんけんで負けて私はビリになった。

悔しさのあまり泣いた。いずれ自分の順番が来たら遊べるのに今すぐ使いたいと気が急って泣いた。

すると愛ちゃんのお母さんがやってきて経緯を聞き、抱きしめて背中をさすってくれた。頭を撫でながら慰めてくれた。

誰が聞いても私が泣いている理由はわがままで図々しい話なのに、怒りもせず慰めてくれる愛ちゃんのお母さん。お母さんという存在って?こういうものなの?

順番で遊ぶということ、じゃんけんで負けたんだから諦めることを怒鳴って怒ったりせずきちんと諭してくれた愛ちゃんのお母さん。

その手は本当に優しく、今も昨日のことのように思い出す。

愛ちゃんのお母さんはその後も人生の相談相手の一人になるのだが、この時のことは今も時々思い出す。

優しいお母さんが欲しい・・・。

私もこんなお母さんが欲しい・・・私もこんな優しいお母さんがいたら良かったのに…と思うようになったのもちょうどその頃だ。

保育園と家の往復の時と違って、私の人間関係が少しずつ広くなると見えてくるお母さんの存在。

でも私のお母さんは愛ちゃんのお母さんと違って鬼のような人。

家では相変わらず祖父が、母親が山に捨ててこいと言ったのを可哀想だからとこの家に連れてこられた…の話を事あるごとにしてきて私はそれを信じ切っていた。

それは晩酌で酔った時のたわごとだったり、祖父母の意に沿わない行動をして叱られた時にも必ず話してきて最後には育ててやってるという言葉で締めくくられた。

その度に聞かされたその話のせいで、私にとって実の母親は恐怖の存在となっていった。

そして、よその家はお父さんが毎日家にいることを知ったのもこの頃だった。


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