保育園から幼稚園へ
保育園が老朽化で別の場所に建て直して移転することになった時
私は今度は幼稚園にいくことになった。
幼稚園では昼寝をしなくていいらしい。脱脂粉乳もないといいな。そんなことを考えた。
私は年長の1年間だけ、家から徒歩で通える幼稚園に通うことになり、また違った生活が始まった。
幼稚園では脱脂粉乳が出てこなかった!単純な理由だが
保育園での最大の苦痛だったので、なかったことがめちゃくちゃ嬉しかったのを今でも覚えている。
朝は新たに、楽しい【おはようの歌】からスタート。帰りは【さよならの歌】歌は大好きな私!
幼稚園に行くのが楽しみで仕方がなかった。
幼稚園は教育機関だけあって毎日が新鮮だった。
毎日歌がたくさんで、昼寝もなくて、お弁当に好きなものだけ持っていける。
きちんと教育計画に沿って日々新しい経験がたくさんあり、折り紙だけでなく、工作の時間がたくさんあった。
保育園では折り紙とお絵かきをしたことくらいしか覚えていない。
その折り紙も、見たこともないようなものを折ってくれる。
花いちもんめやだるまさんがころんだなどの外遊びもたくさん教えてもらった。
そして、初めて聞くストーリーの絵本をたくさん読んで聞かせてくれた。
岡田景子先生との出会い
私たちの先生は若くて綺麗だった。
ひいき目かもしれないけど、私たち、さくら組の先生が一番美人だと思った。
保育園の先生たちはおばあちゃんみたいな年配の先生で
(失礼な話だ・・・多分、今考えると40代くらいかと思うけど)
幼稚園の先生は若くて可愛いキャラクターの私服を着ていた。
ヒラヒラのスカートをはいて、ピアノを弾く先生が子供心に憧れの存在だった。
体操の時間はピンクのジャージを着ていて、ピンクパンサーの靴を履いていてカラフルで可愛らしい。
私の先生は偶然にも同じ町内のご近所さんで、祖母はその先生をとてもよく知っていた。名前は岡田景子先生。
この景子先生はその後の私の人生の節目節目にずっと欠かせない存在になっていった。
幼稚園の思い出
園庭にはウサギがいて、ウサギの餌当番というのがあって私はその当番が回ってくるのを心待ちにし、
自分の手からウサギが餌を食べるのを見てはウサギを愛でた。
砂場用のおもちゃもたくさんあって遊具もたくさんあって、幼稚園では毎日やりたいことだらけだったのを覚えている。
お弁当を食べる前はみんなで黙想をした。
景子先生がエリーゼのためにをピアノで弾いてくれて、【お弁当の歌】も歌った。
お弁当の思い出もうひとつ。冬になると、朝みんなのお弁当箱を当番が預かって保温庫に入れに行くという作業がある。
大きな鉄板の上にみんなのお弁当箱を乗せて、配膳室にある保温庫に入れる。
昼にはちょうどいい温度になって教室に運ばれてきてみんな温かいお弁当が食べられるのだ。
今も使われている幼稚園あるかもしれない。このためにみんなアルミの弁当箱を使っていた。
食後にはお楽しみの肝油ドロップを全員2粒ずつ配られて食べる。
甘くておいしい肝油ドロップはすぐになくならないように、ゆっくりと舐めたものだった。
幼稚園は規則正しい生活で、先生も小さなことでも習慣付くようにマメに声かけてをしてくれた。
私は幼稚園でご飯を食べたら歯磨きをすることを覚えた。
団塊ジュニア世代だけあって、子どもが多く年長クラスは5クラスあったおかげで
園庭に出ると所狭しと子どもが遊んでいて、遊具も、砂場も毎日同じもので遊べなかったけど、幼稚園で今後幼馴染で親友と呼べる友達ができた。

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