鈍くさい女子
祖母の希望はなんでもそつなくこなす子だったので、勉強も運動も生活全般、ちょっとできるくらいではダメだった。
3年生の時、担任の先生が若くて先生になりたてゆえに熱心だったのとそろばんを始めたことで算数が5になった。他の教科もおおむねよくて体育だけが2だった。
私は褒めてもらえるといいな!と意気揚々と帰宅して通知表を見せた。
「なぜ体育は2なの?」「国語はなんで3なの?」
そんなの先生に聞かないとわかるわけない。
体育については、本当に鈍くさいので駆け足も遅いし、鉄棒も跳び箱もできない。
マット運動なんて前転くらいだ。
国語は、漢字のテストで「はね」や「はらい」の凡ミスがあったのが原因かもしれない。10問中9問正解の時もあったと思う。もちろん全問正解もあった。でも相対評価の時代、なかなか4や5を取るのは難しかった。
「孝子ちゃんはオール5だったよ。」
このセリフも何度も何度も聞いた。聞かされた。祖母の兄妹たちやその子供たちが学校の先生だったのでなぜ私の出来が悪いのか?「おばあちゃんだって成績優秀で子供の頃何度も表彰された。」と言う。
そして「お前は努力が足りない、遊んでないで勉強をしろ。」と締めくくった。
算数だけが5ではだめなのか。体育の成績が上がるってどうした良いんだろう・・・。
鈍くさいを卒業したい
3年生の時の先生は、物事の良し悪しも、それぞれに考えさせて帰りの会が長引くこともあった。
子供時代、良い先生との出会いは本当に大切だなと思う。
出会えてよかったと思う先生のひとりでもある。
話を戻すと、この成績では褒めてはくれないんだということだけはわかった。
体育だけは本当に1年も2年もずっと2だったし自分の運動神経の鈍さを何とかしようと私は2学期の水泳大会の選手になった。
今考えると、みんな本気で泳いでた?と思うほどこんな私がクラスで早いなんてことある?といったところだけど一番良いタイムで選手になったのだ。
クラス対抗での結果はビリだった。でも先生は結果は残念な結果でも頑張ったことを評価してくれる人で、苦手なこともとにかくやれることはやろう!そう思ったきっかけにもなった。
その後、できるだけ時間を作って学校の校庭に通うことにしてのぼり棒に登れるようになるのと、鉄棒で逆上がりができるようになることを目標にした。
3年生当時、私は森田塾とそろばんで何もない日は水曜日と土曜日しかなく、森田塾の後にも学校に向かいただひたすら練習した。
あの頃は放課後に学校に遊びに来ている子も結構いて、遊具で遊んでいてこの鈍くささを見られるのは恥ずかしかったが、豆ができて、皮がむけて血が出ても、ばんそうこうとハンカチを当ててひたすら毎日練習。
つぶれた豆が痛いときは少し練習を辞めて、やがてのぼり棒で上まで登れるようになり、鉄棒も地球回りができるようになり、逆上がりはまだまだ遠い道のりだったが少しずつ進歩した。
作文
祖母は算数が5だったのはそろばんをやってるんだから当たり前だと言う。
私はなんとかして国語が5になるようにと宿題になっているわけでもないのに、ことあるごとに作文を書いて先生に持って行った。
先生は丁寧に添削して返却してくれて、作文を書くのがどんどん楽しくなった。先生のコメントも嬉しく、いろんな題材で作文を書いた。
庭の花、いとこと遊んだこと、東京の祖母の妹の家に行ったこと。先生はさらに私が書いた作文の添削をクラス全員にさせて、さらなる文章力をつける授業をしてくれた。
しかし、どう頑張ってもオール5は無理だった。5とまではいかなくても、なんとか4になりたい。
水泳大会や校庭での特訓の甲斐あって、2学期の体育は3になった。でも認められうことはなく、私は家に帰っても自分の居場所がないなと思うようになり荒れた。
3学期は学校で男子ともめることが多くなり、よく教室の隅で泣いていた。泣いていると女子の友達が先生に言いつけに行く。些細なことでもすぐ泣くので男子は余計にちょっかいを出してくる。
先生は、祖母に向けて言いたかったんだと思う。それくらい私の3学期の心は乱れていた。自分でも今もその3年生の時のことを努力が報われなかったことを忘れられない。
通知表の学校での生活欄、そこに初めて「情緒不安定」と言う文字が書いてあった。
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